日露戦争時のロシア・プロパガンダ絵画集

 ソヴィエト時代のプロパガンダ絵画とは、また一味違ったロシア帝国のプロパガンダ絵画をご紹介。
 もちろん戦時中の絵画なので人種差別的な表現や日本人としては不愉快な表現が多数含まれますが、当時のロシア社会の雰囲気を知るよすがとはなるでしょう。
 なお、絵の下にかかれているロシア語は絵に対応した詩などらしいのですが、文字が潰れてしまっているので読めませんでした。本来はそれも紹介するべきなのですが……。申し訳ありません。
 サムネイルはクリックすると拡大表示されます。
 未熟なロシア語使いですので、何やら間違いなどがあるかもしれません。誤りなどありましたら是非ご教授お願いいたします。




Страшенъ врагъ, но милостивъ богъ!
敵は恐ろしいが、神は慈悲深い!

 満州(Манчжурия)に要塞を築いた大きなコサックが朝鮮(Корея)を踏み台にして、日本(Япония)に襲いかかる。大男の眠そうな目と、足下で豪快に蹴散らされる軍艦がミスマッチで見る者に失笑をもたらす(?)奇妙な逸品。ЯпонияをЯпонiяと書き間違えているのも奇妙。iに至ってはキリル文字に存在しない。
 イギリスなどの風刺画にも似た構図の物が見受けられるが、それらを意識して描かれたのかもしれない。




Кь войнь Россия сь Японя.
Воевая пвоенка моряковь.
ロシアとともに、日本と戦おう。
水兵の戦い。

 軍艦の艦首飾りが掴み合いの大げんか。ただし本来なら日本の艦首飾りはご存知の通り「菊の御紋」、ロシアのそれは「双頭の鷲」が一般的ですので、掴み合いは出来ないのですが。
 おそらく海軍の募兵ポスター。
 検閲年月日は1904年3月5日(露暦)。太平洋艦隊司令長官に名将の名高いマカロフ提督が就任したため、ロシア海軍が一番景気付いていたころのものである。一ヶ月もしない内うちにマカロフが戦死して、高揚していた戦意も元の木阿弥となってしまうのだが。





Посль неудачной поытки японцевь загородить входь вь Портъ-Артуроскую гавань.
Добры совьть пока не поздно.
日本人が堅固な旅順に入城しようとして失敗した後。
志願兵になるのはまだ遅くない。

 東郷提督らしき人物が旅順(Портъ Артуръ)から朝鮮湾(Корейский залив)を経て長崎(Нагасаки)にほうほうの体で逃げ帰っている。
「志願兵になるのはまだ遅くない」とのことだが、国民は戦争に乗り気でなかった。あまりに志願兵が集まらないため拉致同然の「男狩り」が行われた地方もあるとのこと。
 検閲年月日は1904年4月14日(露暦)。日露戦争初期のプロパガンダ。閉塞作戦や港内砲撃がことごとく上手くいかなかった頃のものである。やたらと地名が細かいが、旅順港がまだ無かった頃のロシア艦艇は長崎で冬越しをするのが通例であったため、長崎はロシア国内では比較的良く知られた日本の地名であった。
 ちなみに、このロシア兵も服装がコサック兵である。
 なお日本海(Японское море)のような海はмореで、ビスケー湾(Бискайский залив)のような湾はзаливである。朝鮮湾とは日本海のことではなく、おそらく黄海沿岸、現在の西朝鮮湾とのことと思われる。





Хоть маль, да удаль.
小さくとも痛い

 ハリネズミと化した旅順に掴みかかり、手が血まみれになってしまった日本海軍の図。日本をクマに対抗できるハリネズミとして表現したフランスの戯画があるが、これは立場が正反対である。もっとも、フランスの戯画は「巨大なクマ様に立ち向かうちっぽけなハリネズミ」のような扱いで、日本を褒めていたわけではないらしいが。日露双方ともに「小さくとも痛い」を味わう羽目になったわけである。
 検閲年月日は1904年4月21日(露暦)。これも日露戦争初期のプロパガンダ。
 なかなかにユーモラスな絵画だがこの後に起きる旅順包囲戦の悲惨さを考えると、あまり笑ってもいられない。ついでにいえば、この絵の描かれた直後に戦艦八島、初瀬が触雷して撃沈されてしまう。
 ちなみにこの時期、まだ旅順要塞は工事が進んでおらず弱体であった。




Завтракъ казака.
コサックの朝飯

 白目を剝いて気絶している日本兵を食べようとするコサック騎兵の図。ロシアには「朝飯前」という言葉はないはずだが……?
 味方であるはずのコサック兵までがいささか醜悪に描かれているが、勇猛果敢さを描きたかったのか、それともコサックに対する差別が浮き彫りとなっているのか。
 なお日露戦争においてコサック騎兵は高級指揮官の不理解にも関わらずロシア軍の機動部隊として、そして主力として活躍した。有名なコサック出身者にはロマン・コンドラチェンコやパーヴェル・ミシチェンコがいる。




Боевая песенка донцовъ.
ドン・コサックの凱歌

 トルコ人をひっぱたくコサック兵の図……ではない。抱えられて「お尻ぺんぺん」されているのはもちろん日本兵。顔の彫りが深いせいで、ペルシャ人かトルコ人みたいな見た目になっている。
 旅順の文字が示す通り、おそらく旅順港閉塞作戦の妨害成功を祝って描かれたもの。
 コサック兵は騎兵のイメージが強いが、コサックには騎兵しかいないわけではない。旅順要塞にも多数のコサック部隊が守備隊として駐屯していた。
 なおдонцовъはドンツォフという人名にもなるのだが、知る限りは日露戦争においてドンツォフという著名な軍人はいないため、ドン・コサックとした。




Японскй Императорь и его лукавые доброжелатели.
日本の皇帝と彼の邪悪な友人たち

 明治天皇とジョン・ブルとアンクル・サムを描いた1904年のプロパガンダポスター。
 ロシアは当初からイギリスを黒幕とみなして敵意を剥き出しにしていたから、イギリスが「邪悪な友人」なのは驚くに値しないが、アメリカをここまで露骨に敵視したのは珍しい。アメリカは黒幕というよりは漁夫の利を狙っている観察者とのポジションが多いのだが。




"Русско-Японская война" 1904 Г.
「露日戦争」1904年

 武器を供与するイギリス、高みの見物と洒落込むアメリカ、前面で戦う日本、泰然と構えるロシアとオーソドックスな構図のプロパガンダ。
 こっちのロシア人は戦いの土俵にすら上がっていない。いくらなんでものんきすぎるが、のんきすぎるという点ではあながち間違ってもいないところが恐ろしい。が、旅順の守備隊員たちはこんなに余裕綽々ではいられなかったのもよく知られているところ。
 この醜悪な日本人に関しては、江戸時代のペリー提督の想像図に似ていないこともない。
 左斜め下にヴァーシャ・フロツキーという人名が読めるが、詳細は不明。



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