ロシア太平洋艦隊の警戒態勢
——開戦前夜——

「マリア祭」という間違い
 ここでは日露関係の緊張を受けて執られたロシア太平洋艦隊の警戒体制について述べたいと思います。

「さらにわるいことに、この日(筆者注:旅順港夜襲の当日)はマリア祭であった。ロシアの宗教習慣としてこの聖母マリアの名にあやかったマリアという名の女性を祝賀することになっている。(略)もっとも不幸であったのは、艦隊の司令長官であるスタルク中将の夫人がマリアであることであった。このため司令長官夫人は部下の将校多数を官邸にまねき、祝賀の夜宴を催した」引用元:『坂の上の雲 三』, 司馬遼太郎(1968~1972年), 文藝春秋(1999年). ISBN 978-4-16-710578-0
 この一文は司馬遼太郎の有名な小説『坂の上の雲』の一節ですが、当時のロシア軍の堕落を如実に表しているとして、ネット上などでもこの「マリア祭」の逸話はよく紹介されます。
 小説は兎も角として、帝国海軍軍令部の編纂した『極秘 明治三十七八年海戦史』においても以下のように記されております。
「此ノ日ハ恰モ一般ニマリヤト命名セル夫人祝日ナルヲ以テ、上下共ニ之ヲ祝シ、艦隊ノ将卒過半陸上ニアリ、而シテスタルク中将夫人モ亦此ノ名ヲ冒セルカ故ニ、陸上官舎ニ舞踏会ヲ催シ(略)」[1]
 つまりこの言葉を額面通りに受け取ると、日露関係が極度に悪化しているにもかかわらず旅順にいたロシア艦隊は上は司令長官から下は水兵に至るまで、「マリア祭」のお祝いのために陸上にあがって飲めや歌えやの大騒ぎをしていたということになります。


 しかし実を言いますと、このいわゆる「マリア祭」に関する逸話は誤りの可能性が極めて高いのです。同じく『極秘 明治三十七八年海戦史』に収められている『第三十六號 明治三十七年二月二日森海軍中佐ノ海軍々令部長ニ提出セル露人ノ諜報』には

「各艦何レモ鋭意ニ兵員ノ操練ニ従事シ士官兵員ノ上陸ニアツテモ艦長大ニ之ヲ制限セリ一月三十一日ハ日曜休日ナリシモ艦隊ノ各艦ヨリハ一人ノ水兵上陸スル者無ク(略)」[2]

と記され、休日であるにも関わらず上陸する兵員はいないとされております。続けて引用では割愛しましたが、上陸できたのは内港に碇泊している艦艇の乗組員のみだとも書かれています。
 ロシア側の資料としては例えば開戦後になって旅順に着任したセミョーノフ海軍中佐は著書『ラスプラタ』において仮装巡洋艦『アンガラ』の将校から聞いた話として、

「全艦隊が港外泊地に集合すると同時に『日没(午後約五時)より翌朝までは全員在艦すべし』との命令が出た(略)此命令は厳重に実行せられ殊に二月八日は厳しく実行せられた」

と述べており、明確に否定しております。
 ただ、『ラスプラタ』には

「日本水雷艇攻撃の際には、将校及び艦長達のみならず、スターク将官(筆者注:スタルク中将のこと)自らも自分の誕生祝の為め上陸して居ったとは事実だらうか」

とあり、ロシア兵の間でいわゆる「マリア祭」の話に近いことが取り沙汰されていたことは明らかです。もっともここでは件の仮装巡洋艦『アンガラ』乗り組みの将校が、提督がお祝いのために上陸していたことを悪意に満ちた流言に過ぎないとして否定しています。
 ロシア帝国海軍軍令部の編纂した『千九百四、五年露日海戦史』においては

「一月二六日(二月八日)ヨリ二七日(九日)ノ夜スタルク提督官邸ニ於テ挙行セラレタリト言フ夜会ニ関スル説ハ全然虚偽ノ延言ニ過キサルヘシ」

と述べられ、ソ連国防省軍事史研究所員ロストーノフも 『ソ連から見た日露戦争』にて

「戦艦『ペトロパーヴロフスク』号上において、オ・ヴェ・スタルク中将は、午後一一時頃(筆者注:二月八日)旗艦長と各艦長との会議を終えた」
「非常時に際会して、ロシア艦隊の全兵員は各艦内にとどまっていた。起りうる水雷攻撃を撃退するため、砲塔以外に、艦砲の一部は装填したままにしておかれた。砲手と水雷手は自分の戦闘部署についたままであった」

と述べており、「マリア祭」でロシア海軍の将兵が浮かれ騒いでいたということは風説のたぐいに過ぎず、まずありえないということがおわかりいただけたかと思います。

 このように開戦前夜の旅順港では警戒態勢がとられていたということは明らかですが、それでもなお、ロシア海軍が開戦初日の夜襲では駆逐隊の接近を妨害することすら出来ず損害を出したということは確かです。
 前掲の『ソ連から見た日露戦争』でも

「港内の艦艇を保安するために安全措置がこうじられたものの、それは明らかに現状にそわないものだった」

と書かれておりますが、ではその「明らかに現状にそわない」安全措置とは具体的に一体いかなるものだったのかを示させて頂きたいと思います。


旅順の旅順港夜襲直前までの動き
 旅順港夜襲は他の項に詳細を譲るとして、その直前までの出来事を詳述したいと思います。
 当時、旅順港は戦艦7、装甲巡洋艦1、防護巡洋艦5などを基幹とするロシア太平洋艦隊の本隊の母港となっておりました。

 1904年1月25日にロシア皇帝ニコライ二世は極東総督アレクセーエフからの要請を受けて旅順とウラジオストクの両要塞に戒厳令を敷くことを許可します。これは対日強硬派の筆頭であったアレクセーエフのポーズと言っても良かったかもしれません。
 極東におけるロシアの利権を拡大するためにはいわば「目の上のたんこぶ」である日本を屈服させる必要がありました。故に彼はロシアが強い姿勢を見せれば日本は折れるとの希望的観測から、政治的デモンストレーションとして戒厳令を敷く許可を得ようとしたものと思われます。
 しかし日本は折れず、5日後の1月30日に旅順へ駐日武官ルーシン海軍大尉から大部分の商船が徴用され、佐世保に大規模な輸送船団が集結しているとの報告が入ります。
 アレクセーエフはルーシンが報告書の結びで述べたように、日本がロシアとの戦争を決意したと言うことを理解したのか、それとも政治的デモンストレーションのチキンレースと理解したのか。そのいずれであったのかは私の手元資料では窺い知れません。とにかくアレクセーエフは海軍の出動を可能とするようにニコライ二世に要請します。

以下未稿

参考文献
『極秘 明治三十七八年海戦史』, 帝国海軍軍令部, 国立公文書館 アジア歴史資料センターにて参照
 [1]『第一部 戦紀 巻二』に所収された『第二編旅順口及ひ仁川の敵艦隊に対する作戦 第三章旅順口第一次攻撃』186頁。レファレンスコード: C05110031900
 [2]『第一部 戦紀 巻一』に所収された『備考文書』85頁『第三十六號 明治三十七年二月二日森海軍中佐ノ海軍々令部長ニ提出セル露人ノ諜報』。レファレンスコード: C05110031300
『千九百四、五年露日海戦史』, 露国海軍軍令部(原著出版年不明), 帝国海軍軍令部訳, 芙蓉書房(2004年). ISBN978-4-8295-0350-8
『ラスプラタ 第二編』, セミヨノフ(原著出版年不明), 「海軍」編輯局訳, 画報社支店(1911年).
『ソ連から見た日露戦争』, I・I・ロストーノフ(1977年), 及川朝雄訳, 原書房(2009年). ISBN 978-4-562-04538-9
『日露旅順海戦史』, 真鍋重忠, 吉川弘文館(1985年). ISBN 978-4-642-07251-9
『МОРСКАЯ МИННАЯ ВОЙНА У ПОРТ-АРТУРА』, В.Я.Крестьянинов, КОРАБЛИ И СРАЖЕНИЯ(2006年).
『もうひとつの日露戦争』, コンスタンチン・サルキソフ, 鈴木康雄訳, 朝日選書(2009年). ISBN 978-4-02-259951-3
『最後のロシア皇帝 ニコライ二世の日記』, 保田孝一, 講談社学術文庫(2009年). ISBN 978-4-06-291964-7



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